昭和47年11月10日 朝の御理解



 御神訓 一、『御地内をみだりに穢すなよ。』

 私は福岡での修行中毎日福岡の教会にお引き寄せ頂いておりました。ある時の参拝に、その頃はもう神様から色々とお知らせを頂いとりました、ある時には小倉の桂先生、ある時には福岡の吉木先生、ある時には久留米の石橋先生。だけではない、四神様教祖様又は、当時の三代金光さま、本当に付ききりで私を鍛とうて下さったり、教導しておったりしておったと思う時代なんです。色々と御祈念をさせて頂いて、神様に色々頂きます事を、お礼申させて頂くと同時に、本当に私の様な者。
 私の様な言うなら信心も本当の信心が出来ん者に、神様がこの様にして、色々とお知らせを下さると言う事は、なんと勿体ないおかげを頂いたもんだろうかと、思わ様せて頂いた途端に、神様から「この徳を受けたと思うか」とお知らせを頂いた。このお徳を自分、で受けておる、頂いとるかと言う事です、ですから私は本当に只今も心の中に思いました様に、本当に勿体ない事です、私みたいな者の、無信心な私に神様がそれこそ手を取り足を取る様にして、お導くき下さり本当に勿体ない事です。
そうじゃ吉木と言やあ吉木栄蔵の霊、桂と言やあ桂松平の霊が直直お前にこうやって教えると言う事、それはね、お前は受けたと思うけれども、受けておるのではない、それは借り物ぞと、神様が仰る。神様が言うならば天地金乃神様がです、そうした私の信心の言うなら繋がりと言う、そう言う徳を受けられた先生方の霊さまを使うて、そして私に教導して下さるのです。
 とてもそれは、天地の親神様が、天地金乃神様が只私に、それを今だけ許されておる、言うなら、お前の徳は、借り物ぞと頂いた途端に、もう本当にそれを思いました。そうどころじゃあるまいと、自分位な信心で、本当に神様からお知らせを頂くなんて、そう言う事のあろうはずはない、私のは確かに借り物だろうと、思わせて頂いたら、又途端に下さる事がです「一生借り続ければその方のもんじゃ」とおっしやった、一生借り続ければお前のものじゃと。
 ですから、油断も隙も出来ないと言う事ですよね、何時神様がお取り上げになるやら、取り上げられても仕方がない、借り物ですから。けれどもそれを一生借り続ける、一生借り続けたら初めてそれが徳となって、お前の物になるのであり、あの世にも持って行けこの世にも残しておけれると、言う事になるのだ。今日私は御地内を、みだりに穢すなよと、その前の神訓に「大地の内に於いて、金の神の大徳に洩る所はなき事ぞ」と教えておられる。天地金乃神様の御恩恵によくしない者。
 言うなら、神様の借りの地所なんだ、言うなら大地そのものが。所謂そこだからそこを、みだりに穢したり汚したりしてはならない、汚すとか穢すだけではない、それを清めてでも行こうと言う行き方にならせて頂く所から、おかげを受けられる。私共も随分まあ信心しておってもね平気で御内地に汚物を捨てたり、つばをはいたりしておった時代があった、信心させて頂いておって。けれども段々分からせて頂くようになって、御地内をもう本当に本気で穢さない、穢さないだけではない汚い所があるなら。
 清めてでも歩こうと言う様な、時代に段々入って来た。これはもうその気になりますとね、必ず例えば大便がし散らかしてある所を通りますとね、勿体ないと思うてあたりを見回しますと、必ず段ボール紙とか新聞紙とかほうきのくずれたつが落ちとるです、これはもう私のその時分の修行の時にはもう、何時の場合もそうでしたから恐れいってしもうとりました。勿論そう言う事が永くは続きませんでしたけれども その位に私共が御地内をみだりに穢さんと言うだけではなくて。
 清めると言う事に信心を頂いて、お道の信心をさせて頂くなら、そう言う心がけが必要。土居の久富さんじゃないけれども、やっぱりお百姓さんですから畑にこうやって肥をかけたりされる、だから是は仕方がない、是は穢すのではなくて肥やすのである。大地を肥やすのである。そんならこの天地金乃神様がです、私共がつばをはいたり、大小便をし散らかしたからと言うてです、ああ汚いなんて言いなさる程しの小さい神様じゃないです。けれども私共が拝んでおる、頂いておる天地金乃神様と拝んでおる。
 その大地の神様は、やはり穢されるのが本当だと。以前の御本部参拝なんかの場合、皆んな列車の中でお便所を使えませんでしたね、もうだから大変でした、もうちょっと永く停車する駅でお手洗いに行く者は行くと云う様にね、私共も飲み物なんかを慎んで、もう御本部え着く迄お便所は使わんで良い様に心掛けておった、現在のごとありや御承知の様に沢山、お水を頂きますからねもう何回となしにお便所を使いますけれども、そう言う私は心掛けが大事だと思う、繁雄さんじゃないですけれども。
 お百姓さんですから肥えをかけられる。私は繁雄さんの信心の素晴らしさと言うのは、素晴らしいと思った事は、その当時でしたがある共励会の時発表されました、大概の者がそこは当たり前ですよねえ、お百姓さんが畑に肥しを掛けるのは当たり前です、けれどもその肥やしを掛ける時にね神様すいません神様すいません少し避けて下さいと言う様な気持ちで肥やしをかけます、と言う発表をされた事があんです。
 成程なあと思います、おかげを受ける人は違う「すいません汚いもん撒きよりますけん、ちょいと避けて下さい」と言う様な心もちなんです、その気持ちが素晴らしい。まあ私は御地内をみだりに穢すなよと、最近は大変是はうとんじられる、軽う見られ様になって来た、御地内をみだりに穢すなよなんて云う様な事はあんまり、お道の信心者でもよう言わなくなって来た。けれども私は思うのにねですね、御地内と言うのはですね、今言う御地内の事、大地の事と同時にです。
 おかげを産みなす場、言うならばおかげがおかげを生んで行くと言うおかげの場の事です。御地内に毎年年々再々例えば籾を播くと、一反から今年も十俵とれた又来年も十俵取れると言う様にです。もう限りなくおかげの場と言うものが、続けられて行く様にです、私共がおかげをうけておると言う事、その受けておるおかげを穢してはならない。その元である所の心を汚してはならないと言う様に今日は頂きたいと思うて。
 今日は一番初めに福岡の修行時代の神様と私の対話ですかいわゆる借り物ぞと言う所の事を先に聞いて頂いたんです。皆さんがおかげを受けた、おかげを受けたと言われるけれども、そのおかげもアッと言う間に、おかげを落とす例がありますでしょうが、一番その極端な例なんかは、中島の上滝さんなんですね、栗粒結核で、医者はもう本当にもう、時間の問題でもうすぐ亡くなられると言うて、当時の医大の肺病の権威と言われた、先生が見えられてそう言う診察をなさったと言う程しに。
 それは大変な病気でしたですね、あの種の病気は、此処の横腹がほげて、横腹からずうっと濃が出ていたんです。上滝さんの事は、皆さんが良くご承知の通りですけれども。言うならもう絶対助かるはずがない、当時もうあちらに参りこちらに参り、すっかり医者も薬も、参る所と聞きやあ、御利益のあると聞きやあ、もう必ず参ったんですねえ、家内が、ある所にお不動さまか、何かに参らせて頂いたら「もうこの方は、寿命が来とるから駄目です」と言われた。
 その当人さんの言うなら、心に映じたものはね、丁度死ぬる装束を付けて、片一方の足には、わらじをはいちやる。片一方のわらじの紐を結ぶだけで、あの世に旅立つばかりの寸前ですから、もう是をとりとめる事は出来ません、と言われた程しだった。亡くなられる時にもうしまえる、もう息が切れると言うので、親戚中の者はもう結核ですからね、枕元にはとてもおりきらなかった、茶碗一つ一つ消毒どもする位ですから、勿論次ぎの間ででしたでしょうけれども、もう「しまえた」とあの言うた時にです。
 是は上滝さんが、後でおかげ話しの中に、話しておりましたように、もうそれこそ一つの突風が吹いて来てね、その突風でズーッと、その送られた所がもう、何か神殿造りの様な所え入る寸前じやった。それをね、それを後ろから、もう大変な力強い力でね、それを引き戻した。引き戻されてはっと気が付いた時には、お父さんがなくなったと言うて、わんわん部屋中で泣きよった、死んだちゅうて、そん時に目がさめた。
 と言う確かに、その当人さんが言われる様に、もう片一方のわらじの紐を結んだら、あの世に旅立つと言う程しの所をです、言うならば当時の私の言うなら取り次ぎ、まあ勿論、金光大神の取り次ぎ手代わりさせて頂いて、私の取り次ぎによって助かったと、そして西鉄に又復職すると言う程しに、おかげを頂いたでしょう。もうそれはその当時の事を知っておられる方は、もっともっと詳しく知っておられる通りです。
 もうこの位垢ぬけたおかげを頂いた方はなかったけれども、又この人位垢ぬけしたおかげの落とし方をした人もなかったです。おかげを受けて自分の病気は良くなるべくして良くなった様な事を平気で言う様になった。ある朝家内がいよいよ5:00前でしたか確か農繁期です、田植えが今日から始まるから、お届けに参ろうと思って朝起きた家内が、そしたら上滝さんがやすんどった、そしてその上滝さんいわゆるみっしゃんの手を、こうやってひっぱって「こげん早よう参らんでんよかじゃねえか。」と、
 言うて手をひっぱったつと息の切れたつが一緒じやった。だから奥さんは是は冗談しよるとじゃろうと思うた、お参りしようとと言う、それ迄はもう一年余りそれはもう神様はどの位おしらせ下さったか知れんです。ほんのその前の日ですかね、二十四日の私が久富先生の所にお話しに行っている朝ですから二十五日の朝、亡くなったのが二十六日ですから、前の朝私がもう刻々のお知らせを頂いたから。
 わざわざ上滝さんを呼び止めてこうこうだから要心せにゃいかんばい、と言うて言うとったけれどもその事には耳も貸さなかった。そしてあくる日は上滝さんが亡くなったと言うて、大和さんのお父さんが朝みえた時には、私も本当にびっくりして、私はあん時ばかりはですね、神様の前に出るよりかもう、便所に入ったです、そして心を落ち着けなければならない程しにびっくりしました。ですからね頂いておるのでなくて借りておると言う事が分かりまね、おかげは。
 だから神様が取り上げようと思いなさりやもう、あっと言う間に取り上げなさる訳です、取り上げなさる前には随分とお気付けも下さる。神様がもう決してね、すぐ言うなら、まあ分かりやすう言うなら罰を当てなさる様な神様じゃない。無い命を頂いておるのですからそれを頂いたと言うお礼心も段段無くなって良く成るべくして良くなった様な、思い方の中から信心を疎かにする様になった。そこからもう当然、一年余りでしたかね、取り上げられた訳です。
 ですから私共がです例えばそんなら上滝さんじゃないけれども、無い命を助けて頂いた、自分がもう本当に男泣きに泣きながら、いろんな共例会なんかにに行ってから涙ながらに助けられた話しをしよりました、皆が大変おかげを頂きよった。けれども段々それが薄うなってきた、だから頂いたおかげを愈々一つの御地内と思うて、それを大事に穢さん様に汚さん様に、落とさん様に、おかげがおかげを産んで行く様な、おかげを頂かなければいけんのです。
 先日からもお話を致します様に阿倍野の先生のお話を致しました様に、信心をさせて頂いておると年を取れば取る程、有難いとおもう事が増えて来ると言うておられる。教祖さまは信心すれば一年一年有り難うなって来ると仰るが、有り難うなるはずだもの、一年一年おかげの場が広うなっていきよる。一年一年有難い事が多なって来る様な信心をしなければならんのにです、その多なる所か、頂いたおかげを穢したり汚したり落としたりして、おかげの受けられるはずは有りませんよね。
 どんなにおかげを頂いており、どんなに目を見張るようなおかげを頂いておっても、心がけが間違って信心が疎かになると、そのおかげを言うならば落とすと言う事は、もう取り上げられると言う事、なる程、おかげは借りものだと言う事が分かります。だからそのおかげを受けておるそのおかげをね、例えばあん時はふの良かったつじゃろうてんなんてん、と言う様な心で穢したり汚したりしてはならないと言う事。
 あの時のおかげの事を思うたら元気が出る、あの時のおかげの事を思うたら有難いと言う様に段段育って行かなければいけないのに、そのおかげの受けられる所の言うならおかげの場とか、心とか言わば御地内をみだりに穢すと言う事よったり、汚す事によっておかげをアッと言う間に取り上げられてしまうと言う結果になる。成程信心が出来たから頂いたのじゃなくて、信心が出来たから貸して頂いたんだ。
 私共の先程からもそうでもそうです、神様が言うならば、まあ言うなら、徳の貸しものと言うていいでしょう、お徳と言うものは神様が貸して下さるもの、その徳をですそのおかげを一生頂き続ける。私共が信心しておかげを頂く、奇跡的なおかげを頂く、そのおかげをです、そのおかげをおかげの場として、もうそれから次ぎから次ぎとおかげを頂き続けてゆかねばいけんのです、おかげを頂き続けて初めて、一生頂き続けたら、その方のものになるのであります。
 きのう一昨日孫の三十三日ですかね、だからお礼に改めて改まって出て参りました、神様にお礼を申させて頂いておかげを頂きましたが、神様から「公」と言う字を頂いた。公子さんの公と云う字ですねおおやけと云う字は、私はその時にどう言う事だろうかと、只御神米にただそれだけ書き下げてやった。どう言う意味だろうかと、と言う事は自分の子と思うなよと言う事、自分の子と思うと言うなら我情が出る、いわゆる愛情過多になる、只可愛い可愛いばっかりになる。
 神様の御子としての頂き方、それを今朝の御祈念に気付かせて頂いた。昨日も私ちよっと孫の顔を見ろうっと思うてやらせて頂いたら、ドアーの所にこう何かこうぶら下げちゃる「ただ今眠っとるから静かにお入り下さい」とこう書いちゃる、入ってみたらキョロキョロしとる、そして親父の方が横にチャーンとグウグウ言うて寝とる。もうそれはなる程可愛ゆいしてこたえんごたる風ですけれどもです。
 是を本当に神様の御子言うなら、預かりもの神様から預かっておる子として頂からせて、預かり抜かせて頂いた時に、初めておかげが頂かれるのです。それを自分の子供と思うて、いわゆる愛情過多になって、自分が育てようとする所にです、間違いが起こって来るんだと。私は昨日一昨日そんな事を頂いとったけれども、どう言う事か分からなかったけれども今日の御理解頂いて、いわゆる借り物貸しものと言う事、おかげと言うものは神様から貸し付けられておるのだ。
 だからそこに御無礼が出来たら神様が何時も取り上げなさると言う事をです、思わせて頂く時に、成る程勿論家も倉も財産も、一切が神様のお預かりものとして、神様の御ものとしての頂き方、子供でも神様から預かっておるのであるから、その育て方を御用させて頂くんだと言う頂き方になってきますと、いわゆる愛情過多にならんで済む。いわゆるむぞがり殺しと言うのがありましょうが、いわゆる神様から、むぞうがってもらう神様から愛してもらう、それを親があんまりむぞうがるもんじゃけん。
 ちやんとむぞうがり殺してしまう。と言う様に頂いたおかげ又おかげの場、そこをです例えばみだりに穢したり汚したりしてはならないと言う事をです。今日はそう言う風な意味で聞いて頂きました。御地内をみだりに穢すなよ、なる程金光さまの信心させて頂いておれば、みだりに御地内を穢すような事があってはならん、これは心がけとして心がけとかにゃならんけれども汽車の中でも便所に行っちゃならんと言う事じゃない、その心掛けなんです。
 その心掛けを今日は私は、私共の頂いておるおかげの場と言うか、伊東コウ先生がです、阿倍野の先生が年をとる程、おかげと思う事が多くなって来ると言う事は、おかげの場をいかに大事にされたか、頂いておられるおかげをいよいよおかげを実感して、そのおかげをおかげたらしめられたかと言う事が分かる。だから一年一年そのおかげの場から上がって来る収入と言うかねえ、おかげと言うのは増えて行くばっかりだから、年を取る程有り難うなって行くのも成程合点が行く。
 それを私共は途中で小さくしていったり、穢したり汚したりするからおかげが段段なくなって年数だけ食っとると言う事だけではいけないと言う事になる。頂いておるおかげをね本当に育てなければいけん、それをおかげをおかげとも考えん様になります所からです、やむを得ないいわゆる貸しとるおかげだから、神様が取り上げなさると言う例を上滝さんの例をもって聞いて頂いたですね。
 これ は当時の上滝さんが「あんたは素晴らしいおかげを頂いたばってん、あんたはおかげおとしの見本になるよ」と何時も言われよったです、今のような事ではおかげ落としの見本になる。何でも一つ手本が要る事は要りますよね、だからそう言う意味では尊いです、上滝さんのおかげを落とされた事は、後の者がそれをねああ言う事では、それではおかげを落とすと、おかげを取り上げられるアッと言う間に取り上げられると言う、もうそれは見事な見本です。
 ですからお互いがそう言う合楽にはおかげを受けた手本もありゃ、おかげを落とした手本も有るのですから、いよいよ御地内をみだりに穢すような事のない、自分のおかげを頂いておる場であるところ、心を穢す、汚すような事のないおかげを頂かせてもらはなければいけん。私は一昨日阿倍野の先生の話しを頂いて以来、もう私の求め続けられておったものが与えられた様に思う、只黙って受けるだけではなくて受ける事、その事が有難いと言う受け方でなければいけない。
もうとに角有難い有難いで受けてさえ行けば、と言う所に阿倍野の教会の言うならおかげの秘密が有ったと思わして頂いたから、もうその事だけを心に掛けさせてもらっておる。そしてこの喜びをです、どの様な風にして行ったら言うなら今日の御理解で言うと、おかげの場が育つであろうかと思わせて頂いておったら、御神眼にね木辺に全くと言う字を頂いた。
 きへんにまったくと云う字、何と云う字になりますか、きへんにまったくと云う字。これは栓と言う字になるですね、とっくりなんかに栓をするでしょうこうやって、例えばそんなら朝御理解なら、御理解を頂く、朝のお参りによって有難いと思うでしょう、帰ったらもう有難くなくなっておるちゅうのは、ああたが栓をし行っとらんからです、気が抜けとるとです、それはどう言う事かと言うと、きへんは木は心、もう全てです、心をそこに置いておくと言う事、全部の心を有難いと言うならば。
 気の抜ける様な事のない様にと心がけておくと言う事。それを帰り道々今日の儲けの我情我欲の事どん考えて行きよもんじゃから、もうその間にちやぁんと今日はどこえ行ってどげな風なま商売人なら、土の様な手で儲けようか、と言った様な事ばっかり考えよるから、気が抜けてしもうとる、もう儲けは神様が下さるもの、ですから今日頂いておるその有難いと言うものをです、逃さん様にぬかさん様に、いわゆるしっかり栓をしておけと言う事は木辺を全く、もう全てを心、心の全てをです。
 その有難い勿体ないが気がぬけん様にと言う精進努力、又その事を思い続ける事だと頂いた。有難いと言うのが抜けてしもうから、いよいよおかげを受けさせてもらうチャンスがあってもそれを逃してしまう様な結果になるのです。御地内をみだりに穢すなよ、今日は私は皆さんにそれを頂いておるおかげを、穢すような事があっちゃならん、頂いておるおかげを疎かにしてはならん、あれはふがよかったっじゃろう位な頂き方しちゃならん、あん時のおかげをおもうたら。
 生き生きとして有り難いものが沸いて来る程しの、教祖様のね、おかげの受け始め、受けた時の事を忘れなければ結構であると教祖様も仰っておられる様に、それが段々日々が経つにおかげをおかげと思わん様になると言う事がです、御地内をみだりに穢す事であり、心を穢す事であり、おかげそのものを穢す事である、おかげそのものを汚す事である。だからおかげの場まで取り上げられてしまうと言う結果になるのですよね。
   どうぞ。